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ストレージの単位が人間の脳内情報すべてをコピー可能になった世界。人々は脳内直結のモジュールを開発し、一定の期間でストレージに脳内をコピーし「バックアップ」をとるようになった。

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コピーを繰り返される「それ」は、オリジナルのそれとの区別がつかなくなり、人は用意された仮想空間のみで、生きることが可能になった。
オリジナルの生物的死は訪れる。
しかし、コピーはコピーの意思で、歳をとり(もちろん、歳をとらないことも可能である)進化し、学習することができた。つまり、人々は概念的には、不老不死を手に入れたのだ。
定期的に行われるバックアップと、それにより発生する膨大な「自己」。オリジナルは失われ、しかしそれは、オリジナルとは異なる進化を続けていくが故に、多様な自己となり、人々は様々な自分が生息し、生きていく時代で、政府が定期的に拡張する仮想世界にて、いくつもの生を楽しみ、いくつもの時代を楽しんだ。
システムは仮想システムを生み出すためのものとなり、膨大に用意されたその世界において、オリジナル、非オリジナル、リアル、非リアルの境界線は曖昧になり、「基底現実」と言われる世界は「仮想世界」の人間たちからは「死」という終わりを内包することによる「まったくもって別世界の話」となっていた。

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「死」がないが故に、より刺激的な娯楽を生み出し、多くの人々がその娯楽に興じていった。
「レース」と呼ばれるそれは、必ず死を伴った。データ消失としての死。
相手をつぶし、スピンアウトさせ、死に至らしめる自動二輪デッドレース。
非オリジナルであればあるほど、コピーのコピーであればあるほど、賞金はさがり、リスクは軽減していった。その軽減されたリスク故に、人々は「レース」を怠惰的に、より、凶暴的に、享楽的に、楽しんでいった。

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しかし、そんな中、自らの電脳ーオリジナルの人間脳ーと直結して、レースに挑み続ける、一人の男子がいた。
彼の名前は葵光太(あおいこうた)。
つながれた電脳は、虚構世界にて死を迎えると、「バックアップ」をしていない限り、脳との接続を通じて焼け落ち、死に至る。
肉体的な死に。
レース場では、脳内との直接接続の映像は現実世界のカメラを通じて、仮想世界の大型モニターに投影されている。
「レース」の観客たちは、基底現実の人間はもちろんだが、なによりも…コピーのコピー、もしくは、コピーのコピーのそのまたコピーかもしれない、もしくは、複数のコピー体を統合された、統合人格かもしれない…そんな「人」の概念のみで存在する「観戦者」たちが大半を占めた。自らが取得できない「肉体的死」を目の当たりにできるかもしれない、という羨望とも狂気とも言える熱狂をもって、観客は葵光太の参加するレースに注目した。